■列車の運行に直接関係ない職場が沢山あった(1)

昭和19年4月(1944年)、16才と10ヶ月、県立工業学校電機科を卒業し、 軍需関連の工場か官庁か、何となく家族の薦める国鉄(官員)に就職した。 聞こえはいいがいわゆるポッポ屋さんの端くれになったわけ。

世間ではポッポ屋さんと言えば機関士か駅員か線路工手を連想しがちだが、おっとどっこいなにせ日本一の現業官庁。炭坑から発電所、病院から小売り業、建築から学校までありとあらゆる部門を持ち、その数有る職場のひとつ、名古屋鉄道管理部名古屋電力区第三電力分区に配属された。
要するに国鉄の縁の下の力持ちで、列車の運行に直接関係ない職場ではあったが、後に東海道本線の列車の運行にかかわる大事な職場に転属することになる。

勤務場所は名古屋駅(昭和12年完成で東洋一と言われた)の地下にある第ニ配電室で名古屋駅のすべてに電力と電灯を供給する変電所だった。




■特急列車の全面廃止と急行列車の削減が実施された(2)

戦局の行方は日に日に悪化するばかり。暗いムードだったが、一応希望に燃えて就職した。

当時から国鉄は福祉厚生と大家族主義の最たる組織で知られ(親子2代の職員も珍しくない)、先ず駅員が着ている新しい制服 (彼らは通勤に着て行けた)が支給されるものと予想していたら、何と何と現場の菜っ葉服(ライトブルー)、しかも囚人服と同じ色と聞かされてびっくり。
その上新品とは遥か遠いもので、洗濯されているとは言え継ぎ接ぎだらけで、しかも三人目との事。囚人も着ていないのではと思われるものだった。(駅のコンコースへ仕事で出た時は本当に恥ずかしかった)

そう言えば名古屋市博物館で、戦時中の中学生のひどい制服が展示されているが、まあそれに近いものだった。 一方、この年4月から、特急列車の全面廃止と急行列車の削減が実施され、同時に軍の非常時体制強化に否応なく、追い込まれていった。




■名古屋駅の空襲警報発令時の旅客の誘導設備の工事が始まる(3)

国鉄全体としては優等列車の削減と平行して軍需物資の輸送と兵員輸送の列車の増加が目立つようになった。毎日配布されるマル秘の名古屋鉄道管理部報に運転の時刻と注意書きが多くなってきた。

我が職場では見出しの様な設備の工事が始まった。
空襲警報発令時の旅客の誘導は真っ暗闇とは行かなくて、ホームの天井にラドン管といううす暗い光を出す細長い電球を吊るし、それを一段一段の階段の両端に埋めこまれた透明ガラスで覆った蓄光塗料のレンガが、光を受けて、真っ暗闇でも淡い黄緑色に光り、旅客の安全に役たっていた。

名古屋駅の全階段(新幹線の階段はない)に施されたこの設備は戦後は、くその役にも立たず(おそらく撤去費用が掛かるため)旅客にも殆ど知られることなく約53年近く取り付けたままになっている。 乗降の際、気をつけて見てください。




■国鉄に入ったからには何時か電気機関車(EL)が見たかった(4)

国鉄に就職しても列車の姿を見る事もなく、駅員として乗客に接する事もなく、初任月給42円也の単なるサラリーマンで、どちらかと言えば電力会社の現場と同じ様な雰囲気だった。

しかし、入って間もなく通勤乗車証(管内の範囲だけの無料パス)が支給されて、ああやっぱり国鉄職員だなと実感した。ところがこれは管内は勿論遠く東京までも行けるよと教えられ、一度は東京(5,6才の時一時住んでいた)へ出て見たいと思うようになり、その機会を伺った。

\'79/7 撮影:あいりす氏
EF15(イメージ画像)
当時近代的でスマートな電気機関車なるものは名古屋付近では見る事は出来なかった。
沼津まで電化され、そこまで行けばお目にかかれる訳だが、ついでに東京までと考えて計画を練りはじめた。
まず24時間隔日勤務で、これのくり返しで休みは無し。しかも列車は東京まで夜行で8時間一本のみ。
無料パスでは急行は乗れないし、東京はとても遠い都だった。

やがて日に日に戦局は不利になり、若者の不足は一段と逼迫し、兵役か軍需工場か、2者択一で国鉄職員の私はちょっとばかり肩身の狭い思いをした。
軍需工場へ入った同級生には月給100円近く貰っているのがいた。
又陸軍兵器学校へ入ったM君は一時帰省で名古屋駅で見送り、その雄姿に惹かれ、心が揺れ動いた。




■名古屋市電に中学4,5年生の運転手が登場した(5)

昭和19年も半ば、不用不急の旅行は無くなり、食料難による買い出し、疎開のための旅行、召集による親族の面会目的の旅行などが多くなり、本数の少ない長距離列車などは何時もすし詰め満員状態となった。

やがて切符の発売制限となり、私など駅にも勤めていないのに父や姉の知り合いから切符をたのまれたことが度々あった。こうした状態が日増しに悪くなり、職員の数は兵役召集により更に減少し、どの職場にも高齢職員と兵役未満の10代後半の我々と、若い女子事務職員だけとなり、徐々にあちこちで 影響が出はじめていた。

特急などが無くなった現在、少ない優等列車などの機関士などは通常ならベテランの35才前後の男性で(当時は小学生等のあこがれの職業の一つでした、)したが、これらも20才そこそこの未熟な機関士になり、客扱いの難しい車掌も女性が登場しはじめたのもこの頃からだった。

『軍人と軍需にあらずんば人にあらず』 
一見平和的な国鉄も軍事輸送の重要性が認識され、遂に国土防衛義勇軍(時期不明)が編成され兵役と同じ扱いとなり、召集は一応免除された。
提供:FS-107氏
市電1500型(名古屋駅前)
この頃には名古屋市交通局でも特急の市電(主な交差点で停車するだけ)が走るようになり、軍需工場に通勤する唯一つの足として、モーターの無い車両を鉄棒一本で簡単に連結して 輸送力の増強を行った。

この頃には、特訓を受けていた中学4、5年の男子生徒が市電の運転士として営業運転を始めた。
やがて普通中学は4年で卒業となり、1年早く軍需生産に就くことになる。




■立派に活躍しているただ一ヶ所、上下線の離れた東海道本線(6)

動く車両はあっても、動かす人がいない。
むだを省くにもその為の資材が無い。
それでも何とかしなければならない。

その大事業が東海道本線大垣関ヶ原間の下り迂回線の開通であった。

大垣から関ヶ原までの下り線は急勾配で従来は大垣から補助機関車で後押しして(このため特急始め長大列車はすべて大垣で停車していた)途中で切り離す方法だったが、これが時節柄無駄な運行として突貫工事となり、レールは資材不足により旧下り線のものを外して使った。

わが電力区管轄の高圧信号配電線にも苦肉の節約資材、鋼心アルミニュウム撚り線と言う新型電線(通常は銅線を撚りあわせる)が使われた。これは伝導効率の悪いものだった。

撮影:谷和原のぞみ氏
新垂井駅(廃駅)
この下り線の開通は岐阜県垂井町の町民の方々には不便この上なく、下り線専用の新垂井駅が出来たが、垂井町とは約3キロ離れ、バス連絡のため垂井以西へ行くには、新垂井駅までバスで行かなければならなかった。

戦後旧線は復旧されて戦前の状態に戻った。
この下り線は新垂井駅こそ廃止されたが、今でも立派に活用している。
ただ一ヶ所、上下線の離れた東海道本線だ。




■昭和12年完成の東洋一の名古屋駅はこうだった(7)

旧東海銀行の絵はがきより
旧名古屋駅(昭和30年台前半ごろ)
完成当時東洋一と騒がれたこの建物は、それ以前の平面交差から立体交差にして地上5階(一部6階)地下2階の堂々たる駅舎で、当時としては珍しい24時間営業の浴場・床屋・洋服プレス・飲食街・大食堂など現在の駅ビルのモデルとして、旅行者に親しまれていた。

1階は全部駅の設備ばかりで、玄関ロビー・出改札・コンコース・大食堂・飲食街・手小荷物の窓口と各ホームへの通路・待合室・駅長事務室・貴賓室などで、各ホームの乗車階段・降車階段・貴賓階段が完全に別れて乗車口・降車口・貴賓玄関となっていた。

2階は東海道上り、下り、中央線、関西線の4つのホームと0番線から12番線までの13本の線路と駅舎の2階は主に鉄道電話の交換室などで、女子の交換手が大勢働いていた。

3階から5階までは名古屋鉄道局が使用し、管内の中枢として機能していた。

何と言っても駅舎正面の大時計は名古屋駅のシンボルとしては勿論、市内の正確無比の時計として信頼を集めていた。
屋上には、一部木造の建物と飲料水用の大型タンクと機関車給水、構内洗浄用などの大型タンクが 配置されて、建物全体と機関車給水塔に給水されていた。
このタンクを空襲から守る為に古い枕木で囲い、土嚢を積み上げて万全を帰したお陰で、20年3月19日の夜間大空襲でも屋上の木造建造物が消失しただけで、駅舎やホーム・給水タンクなどの設備は殆ど無事だった。

この空襲で屋上が火の海となり、駅から500メートル離れた第二の職場(20年1月から第一配電室に勤務)から見た時、名古屋駅は焼失したと思った。

さて、私共の職場のある地下は色々な設備があった。
配電室・電話用バッテリー室・予備発電機室・診療所・大食堂の調理場・車庫・駅舎全体の給湯暖房の大ボイラー室、そして次回に書く機関車給水用の井戸・ポンプ室などがあった。




■危うくSL機関車が転落する大事故が......避けられた(8)

名古屋駅には建設当時から機関車給水及びホーム、線路洗浄用として地下に井戸(直径30cm位の鉄管)を堀り、モーターで汲み上げ濾過し、貯水して全自動にて屋上のタンクに送る設備があった。
それらのモーターの保守、点検を24時間勤務で1時間毎に巡回する事になっていた。

ある日、深夜は交代で仮眠が許されるが、殆ど異常が無いためついつい手抜きになった。
その日は運悪く0番線と1番線(共に機関車入れ替え用の線路)の間に埋設してある給水管が振動の為か破裂して、大量の水が吹き出し、土砂を押し流して0番線の線路が吊橋状になった。

若し入れ替え機関車や車両が通過していたら、大きな事故になるところを未然に発見して事無きを得た。
駅関係者も私達も深夜とは言え、巡回・保守の大切さを痛感した次第だ。


※この物語を書くに当たって一部日時の確認を
元名古屋駅長石黒氏の著書及び
名古屋市交通局資料センターよりしました。




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